<プロフィール>
1938年 大分県宇佐市安心院生れ
18歳で大阪に就職する。その後、小倉、日出、別府に住み、2010年にふるさと安心院に戻る。帰郷後は竹細工のグループ竹朋会の講師として活躍中。安心院地区まちづくり協議会の取り組み、冬のイルミネーションでは竹朋会のメンバーと共に、竹細工でスッポンを作成し、LEDライトで装飾したスッポンが町を賑わせた。趣味は水墨画、ちぎり絵、裁縫、書、歌など。
Q.1 二年前から本協議会が取り組んでいるイルミネーションで竹朋会の皆さんに竹細工でスッポンを作っていただきましたが、隈井さんは何をきっかけで竹朋会に入ったのですか?
こちらに帰ってきた年のある日、安心院旅行村の方へ散歩に行きました。「昔はここに中学校があったんだな~。この道を行ったらどうなるんだろう?」と、歩いていたらパークゴルフ場があったので、一度やってみました。そして、帰りがけに歩いていたら近くの建物から竹を割る「バーン!」という音がしたので、建物に近寄って窓をのぞいてみました。すると、中に20人くらい人がいて、「入りよ~」と声を掛けてくれたのでお邪魔したら、竹細工グループ竹朋会の総会が行われているところでした。お茶も出してくれて、私が「竹細工をしていた」と話すと先生がいないのでやってほしいと頼まれ、まだ皆の名前も顔も分からないけど、会長にさせられました!それが、きっかけでした。最初は標準語で話していたけど、実は同級生でしたので今では安心院語で冗談を言いながら楽しくやっています。後から聞いた話ですが、総会をしていたので竹の音はしないはずだったみいなのですがね・・・、なぜか私には聞こえたんです。
Q2.竹細工でスッポンを作ってほしいと依頼があってどう思いましたか?また、それが設置されてどのように感じましたか?
依頼があった時は、「どうやって作ろうかな~?」と他のメンバー含め3人で分担して、試行錯誤しながら一ヶ月位かけて完成させました。実際に大分銀行の壁に設置され、光が灯った時は本当に感激しました!
Q.3 竹朋会では同級生もいて、楽しそうですね。安心院に帰ってきてからの生活はどうですか?
生きてて今が一番楽しいです。そう思える心に余裕もできたし、友達も竹細工やカラオケを通じてたくさん出来ました。今までの都会暮らしの気取った感じのない、安心院語丸出しで話していると自然と心が和みます。そんなざっくばらんに付き合いができるのが嬉しいです。主人が死んで一年は一人でぼーっとして、何をしても足が地につかなかったり、どうでもいいなーって思っていた時期もありました。でも、今こんなに楽しい時間が残っていたんだなって思っています。例えば、毎朝20分位石垣に座って畑の野菜を見ているだけでも、「あ~よく育っているな~。」と嬉しくなります。今は心が解放されているんだと思います。もう75歳でしょ?今までのような気持では生きていかれないし、もう後がないと感じているのです。明日の事は明日考えればいいかなって。」
Q.4 竹細工以外にも趣味が多いですね、他には何に夢中になっていますか?
趣味は私にとって模索なんです。いろいろやってみて、極めたいな~って思うものはとことん突き詰める。今は特にカラオケが楽しいです。教室に入り、先生に習っています。家の中にじっとしているより、生きがいを持って生きていたいんです。カラオケの大会でも90歳の方が一生懸命練習してステージに立っている・・・、そういう人達が私の見本になっているんです。
Q5.隈井さんが幼い時より、随分と安心院も静かになってしまいましたが、これから安心院はどうなって行ってほしいですか?
この間、NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」で鶴瓶さんと久本雅美さんが鏝絵通りを歩きに来てくれましたけど、この通りをもっと賑やかにさせたいですね。昔はこの通りにたくさん店もあって、活気があったんだけどね。せめて、遠くから鏝絵を見に来るお客さんの為に、家で眠っている鏝絵などを再び空いている家の壁に設置するとか町をあげて取り組んだ方が良いんじゃないかと思っています。
2014年6月
インタビュアー:宇佐市地域おこし協力隊